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イエスキリストとメビウスの帯⑩

✝複素数とは何か(1)

 

根元的な問いを提起する時が来たようだ。-「複素数とは、そもそも何なのか?それは、現実世界の何に対応しているのか?」    

 

物理学者ならば、「複素数は量子力学を記述する際に‘用いられる’」と答えるだろうが、この問いに対してダイレクトな回答を与えた人物は、いまだかつて、ただひとりしかいないのだ。

 

それは、他でもない、ジャック・ラカンである。彼のアフォリズム(警句)を引用しよう:

 

「シニフィアン(音素/記号)Sの集合は、それ自体で完全なものである。しかし、このシニフィアンは、自分自身は数に入らないが、この集合の周囲をなぞる印しである。これは、シニフィアンの集合に、(-1)が内包されることを示している。代数学によって、これを計算すると、結果は次のとおりである。

 

ここで、注意を促しておきたい。

 

上記の警句は、ソシュールの言語学に着想を得たものだが、ラカンは後に、意味sという概念を廃棄してしまい、「すべての言表(発言・文章)はシニフィアン(記号)Sの連なりにすぎない」という立場をとるようになる。

この立場では、いうまでもなく、

ということになる。

 

「意味(実在)」は「記号(シーニュ)」に関する恣意的な「差異の体系」にすぎない、実在は記号たちのシステムにすぎない、という考え方である。構造主義哲学に対して計り知れない影響を与えた。

 

ラカンの警句を少しばかり拡張すれば、次の命題を得ることができるのだ:

 

「複素数」とは、「意味」ないし「記号」である

 

  これは、死に瀕した無神論者が拠り頼んだ根本命題である。112の根拠とな

 

る「ペアノの公理」(自然数に関する公理系)にも匹敵する自明の大前提なのだ。

                                                                                                       

 

  命題なくして、本書の議論は成り立たないと言っても過言ではない。

 

  しかし、「公理」はあくまでも「公理」であるから、命題✡を否定する読者

 

があっても、何ら不都合はない。

 

 

 

もちろん、ラカンの警句は、単なる数学的比喩の域を出るものではなく、私は、これについて真剣に考察したことなど、過去に一度もなかった。 

 

しかし、わたしが手にとった「複素解析学」の教科書は、ラカンの警句に対して、数学的な根拠を与えていたのである。

 

というのも、「‘意味’とは何か」という深遠な問いを追求するツールとして、ラカンが生涯にわたって高く掲げ続けた、あの「メビウスの帯」の数式表記が、「メビウス反転」という複素関数に他ならないわけだから。

 

私が目の前に突きつけられたのは、「世界の‘意味’とは、‘内部’と‘外部’が<対:S-Sをなすことによってのみ構成される」という厳然たる数学的事実だったのだ。

 

このことを明確に認識した瞬間、私はラカンの「集合論」へと引き戻され、次のような洞察へと導かれた:

 

※※複素平面を構成する個々の点zは、それぞれの「意味」を表わす。

 

「意味」=「言葉」=「名前」=「ラベル」=「記号」という置き換えが可能であるから、個々の点zは、世界内に存在する個物たち(レタス、ウマ、自動車・・・)のひとつひとつに対応している。

 

※※※閉曲線の内部は、特定の「集合」(=「システム」)に対応する。これを模式的に示せば、下図のようになる。

 

なお、「集合」=「システム」という置き換えの正当性は、「‘集合’とは何らかの‘規則’に従って取り集められた個物たちのグループ」であることを考えれば、容易に納得されるであろう。

 

上記のような考え方は、人間の「‘意識’vs‘無意識’」という構造に対しても適用することが可能である。

上記の議論を要約すると、次のようになる:

 

あるいはまた、次のように主張することもできる:

 

上記の命題群は、ラカン思想の内容、および「メビウスの帯」と「メビウス反転」の相同性から出発すれば、極めて自然に導かれる結論なのである。

 

もっとも、私が知る限り、こんなことは、いかなる書物にも記載されていないのだ。

 

破滅の淵にまで追い詰められた無神論者がたどり着いた奇妙な臨界点、とでも言えばいいのだろうか。

 

 

 

少し補足しておこう。

 

「閉曲線に囲まれていれば、がどんな形であれ、その内部を‘1つの全体集合’と同一視することができる」という結論を噛み砕いて説明するなら、次のようになるだろう:

 

例えば、「野菜の集合」を考えるとき、どのような個物たちをその中に入れるかは、まったく個人の自由である。極端な話、「レタス、サトイモ、キャベツ、バスケットボール、綿菓子…」を「野菜の集合」だと言い張る人を論駁することは不可能である。おそらく、この人は‘丸いもの’を‘野菜’と呼んでいるのだ。「集合」に名前を付ける場合、その定義や規則は恣意的で構わない。この事実はまさに、「正気」vs「狂気」の問題と直接の関連がある。

 

    私は、ジャン・ジャック・ルソーの「人間不平等起源論」の一節を思い出す:「ある土地に囲いをして、‘これはおれのものだ’ということを思いつき、人々がこれを信じるほど単純なのを見出した最初の人間こそ、政治社会の創始者である。」   

 

すなわち、閉曲線の「形態」は、「正気」ないし「狂気」の‘様態’を表わしているのである。あるいは、健常者ないし精神病者の「言語」を表わしていると言ってもよいであろう。

 

 

 

閉曲線の「形態」に関しては、「量子力学」との関連において、さらに詳しい議論を予定している。

 

それを読めば、ここまでの議論が、いかに稚拙なものであったかを理解することになるだろう。

 

 

 

さて…

 

ここまでの議論に関して、‘事実無根’ないし‘独断的’であるという印象をもたれた読者も多いのではなかろうか。

 

無理からぬことだと思う。私の議論は、教科書に載っていないことばかりだから。

 

つまり、上記の数式群自体に誤りはないけれど、それらの‘解釈’に関しては、私のような理論を公然と主張する学者は皆無なのだ。

 

数学者も、物理学者も、現代思想家/哲学者でさえ、「‘閉曲線Cの形態’と‘自己同一性’の相同性」などという、根拠のない‘たわごと’を口走るような愚か者は、ひとりとしていないのである。

 

いわゆる「試論」として、あるいは「作業仮説」として、最悪でも「非公式の雑談」としてさえ、私のような発想を、ただの一度でも、目にしたり耳にしたりしたことがないというのは、一体どういうことなのだろう。私が‘寡聞’だからだろうか。

 

おそらく、そうではないだろう。

 

-それは多分、ほとんどすべての人が「正攻法」を好むからだと思う。

 

私は元来、多くの「正攻法」に通じている者であった。自分を誇っているわけではない。かつての自分は‘多数派’に属する人間であった、と言いたいだけなのだ。

 

世の「正攻法」によって私の苦しみが癒されたのなら、私は何も好きこのんで「搦め手」ばかりを-「隙間」や「継ぎ目」ばかりを-経巡ったりはしなかったことだろう。

 

自分の苦しみを癒す術がどこにも書かれていないことを知った私が、ただがむしゃらに手足をジタバタと動かしていたら、そんな「隙間」や「継ぎ目」-だれもそれにはふれないし、むしろそれを覆い隠そうとするもの-を垣間見てしまった。幸運にも、あるいは奇跡的にも…

 

主イエス・キリストによって救われた私は、それを明確に、幸運ないし奇跡と呼んではばかることがないのである。

 

主イエスに救われなければ、それは単なる呪いで終わっただろうが…

 

私がこの証しの中に書き連ねている数式群の‘解釈’に関しては、おそらくだれも証明することができないだろう。

 

従って、わたしが‘議論’と呼んでいるものは、単なる‘創作’のように見えるかもしれない。

 

それならそれでいいのだ。もし、私が主イエスに救われなかったら、この「証し」を書くこともなかっただろうし、これらの数式群もまた、廃棄処分になっていただろうから。

 

それ以前に、私はとっくに死んでいただろう。

 

この証しを読み進むうちにわかることだが、かつての私は、独自の‘数学’、独自の‘物理学’、独自の「集合論」ないし「意味論」を突き詰めることによって、傲慢・不遜にも、「無神論の勝利」を確信するに至ったのである。

 

そして、「無神論の勝利」を確信して自殺しようとしたその刹那、主イエスが救いの御手を伸べられた…

 

従って、たとえ私の‘議論’を単なる‘創作’ないし‘捏造’とみなす読者があったとしても、私はなんら恥じるところがないのだ。それどころか、私は、次のように確信しているのである。

 

-「‘真理’に飢え乾いた者は、たとえそれが忌まわしい‘無神論者’であったとしても、主イエス・キリストの憐れみを賜る資格がある。」

 

私は、無神論者であった頃の自分が到達した数学/物理学/集合論/意味論に関する最終帰結-それを示すのはかなり先になるが-を、何らかの‘真理’に触れるものと信じて疑わないのである。

 

 

 

私は、本書での議論を、「複素融合仮説」と名づけることにしよう。

 

 

 

傲慢・不遜にも私は-否、主イエスの憐れみゆえに、これ以上ないほどへりくだって-次のように宣言するのだ。

 

-「わたしの議論は決して‘創作’などではない。‘解釈’ですらない。‘真理の御霊’であられる主イエス・キリストが憐れみの心を起こされたほど価値あるものなのだ。ただし、‘お前の涙ぐましい努力が私の心を動かした。いまこそちっぽけな知識を捨てよ。お前に完璧な神の真理を授けよう。’という意味において。」

 

本節の最後に、「メビウスの帯」と「メビウス反転」の相同性に関する数学的な根拠を示しておきたい。キーワードは、「リーマン面」である:

 

 

 

まずは、「‘複素関数’と‘複素積分’に関する基礎知識」の復習から。

f(z)=1/zの原始関数はF(z)=logzである。簡略化して書くと、

 

実対数関数については、y=logxx=eという対応関係が、複素対数関数については、

 

w=logzz=ewという対応関係がある。(z,wは複素数)

 

いま、z=reiθ,w=u+ivr,u,vは実数)とおくと、z=ewより、reiθ=eu+iveueivと表記できる。

 

従って、r=eu,eiv=eiθ=ei(θ+2nπ)となり、r=euかつv=θ+2nπ(nは整数)、すなわち

 

u=logr,v=θ+2nπが得られる。

 

以上をまとめて、z=r(cosθ+isinθ)r0)のとき、

 

         logz=logri(θ+2nπ) (nは整数)

 

すなわち、logzは多価関数(単一のzに対してlogzが無数の値をとる)である。

 

最後の式においてn=0とおけば、logz=logriθ

 

         n=1とおけば、logz=logriθ+2πi

 

積分路C1が図(27)のようにループをもつ場合は、

 

この関係式は、2枚の複素平面(π0,π1)を用いて説明することができる。(図2829参照)

 

図(29)は、π0の「表」にある点A(r,0)を出発して円周K01回転し、点Aへと回帰すると同時にπ0の「裏」に出る。と同時に、π1の「表」に出て円周K11回転し、点Aへと再回帰してπ1の「裏」に出る…という運動を表わしている。

 

π0π1を「リーマン面」と呼ぶが、リーマン面は無数に存在し、一般にπと表記される。

 

すなわち、πからπn+1へと<移行>する運動を、「メビウスの帯」の「表」から「裏」へと移る運動と同一視できるのである。

 

 

 

以上のような考察から、「メビウスの帯」と「メビウス反転」の相同性が示された。